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作成: 2023年5月9日 9:48   
修正: 2023年6月12日 18:28             

「モノとディスプレイとの重なり」の振り返りから考える日本のポストインターネット・アートにおける「ディスプレイ」の役割

日本映像学会第49回大会(明治学院大学) 水野勝仁・きりとりめでる

連載時の問題意識(2016)

  • デジタル/インターネット以後のモノはディスプレイ上だけでなく,物理世界においてもそのかたちを変え続けるものとなりつつあるというのはまだ言い過ぎだとしても,ヒトはモノをそのように認識し始めている.その前提としてディスプレイが高精細化して「レティナ=網膜」という名前が与えられた状況がある.ディスプレイに表示されているのは「モノ」ではなく「イメージ」だろうと言われるかもしれない.確かにディスプレイに映るものは「イメージ」と呼ばれてきた.しかし,ヒトの網膜がディスプレイに映るイメージを「モノ」としても認識するような状況が,もうひとつの「網膜」としてのレティナディスプレイによって明確に設定されつつある.高精細ディスプレイの登場によって,イメージはイメージでなくなり,モノはモノではなくなりつつある.

  • そうは言っても,モノはモノとしてソリッドな状態で物理世界に存在していて,パラメータを操作することでそのかたちや見え方を変えられるディスプレイ上のモノとは全く異なる条件下にある.けれど,物理世界とディスプレイとがそれぞれモノに与える条件は徐々に相互浸透していき,モノはいずれ今までの意味でのモノではなくなっていく.その途上でモノとディスプレイとの重なりが生まれ,ヒトのマインドが「見ることはもはや信じることではない」という状態に再設定されているのが,ポストインターネット的な状況と言えるだろう.「見ることはもはや信じることではない」ということはデジタルイメージにおいては特に目新しものでもないけれど,コンピュータやインターネットはこの状況をモノにまで拡張することで,ヒトの認識にアップデートをかけ始めている.インターネットで世界が変わり,モノがモノでなくなっていくならば,ヒトの認識も変わらなければならないのである.

  • 連載第0回 モノとディスプレイとの重なり:「ポストインターネット」が設定したクリティカルな状況 https://themassage.jp/archives/1561

➡️ レティナディスプレイ以後のディスプレイとは何かを考える試みる
レティナディスプレイの登場によってピクセルが見えなくなることで,イメージ(=離散的な存在)がモノ(=連続的な存在)として扱われるようになっていくと考えていた.レティナディスプレイの興味深いところは,ピクセルは存在しているが,スマートフォンを使用しているユーザとディスプレイの位置関係では,ピクセルが見えないことである.ピクセルは存在するけれど,ヒトの眼というセンサーでは検出されないものになっている.

同時に,スマートフォンは映画やテレビのように壁際で映像を提示する装置ではなく,ヒトの手元にあり,ヒトの行為に応じて,イメージを回転させたり,拡大させたり,消したりできる装置であった.タッチパネル含め各種センサーを搭載したディスプレイは,映像表示装置というよりも外界とのインタラクションが可能なモノ的側面が強調された装置になっていた.

つまり,ディスプレイが表示する映像がレティナディスプレイによってモノ化していくこととと,ディスプレイが映像提示装置であることを前提にしつつも,外界とインタラクションするモノ的側面が強調されることが交わると,私は考えていた.その交わりにおいて,ディスプレイに提示される変幻自在な「モノ」をそれらを提示している映像表示装置に重ね見たときに,ディスプレイそのものが単なるモノではない何かとして認識されてきているのではないかという予感のもとで連載は始められた.

「モノとディスプレイとの重なり」で取り上げた作品とその回のタイトル

渡邉朋也《画面のプロパティ》|「光の明滅」というディスプレイの原型的性質

Houxo Que《16,777,216 view》|光を透過させ,データとは連動しないディスプレイのガラス

エキソニモ《Body Paint - 46inch/Male/White》《Heavy Body Paint》|モノと光とが融け合う魔術的平面

谷口暁彦「思い過ごすものたち《A.》」と「滲み出る板《D》」|iPadがつくる板状の薄っぺらい空間の幅 

須賀悠介《Empty Horizon》|《Empty Horizon》という「ディスプレイ」を抽出するモノ

永田康祐《Translation #1》|水平に置かれたディスプレイが物理世界のルールを上書きする 

永田康祐《Inbetween》|ディスプレイ周囲で癒着する光とモノとがつくる曖昧な風景

小林椋《盛るとのるソー》|ディスプレイを基点に映像とモノのあらたな「画面」状態をつくる

エキソニモ 《201704EOF》,《A Sunday afternoon》 |光/絵具で塗りつぶされたディスプレイ

アーティストへのアンケート(2022)

「モノとディスプレイとの重なり」の振り返り

「モノとディスプレイとの重なり」で取り上げた作品を振り返ってみると,ポストインターネットで重視されたオンライン=オフラインという関係よりも,スマートフォンという「情報と融合したモノ」の体験重視で選ばれ,考察がなされていたと,今の私は考える.その体験とは,レティナディスプレイでピクセルが見えなくなることであり,ディスプレイが手に持たれ,ヒトと世界とのあいだに挿入され,自在に動かされて見られるものになったということである.これらの体験を作品にまとめ上げ,物質と情報の関係を炙り出そうとしていた作品に,私は惹かれていた.

例えば,スマートフォン体験を通して「ディスプレイでは物理世界に当然のようにあるz軸=奥行きがあるようでないような曖昧な設定がなされる」という情報が,ヒトの認知プロセスに入り込んでくる.認知系の研究室でヒトの認知プロセスを惑わす曖昧な視覚情報を示す設定を施された実験装置のように,スマートフォンなどのディスプレイを用いたデバイスは,多く人に認知が曖昧になる状況を体験させる.その体験をルールとして明示したのが「マテリアルデザイン」だったとすれば,視覚情報の曖昧さを体験として鮮明に取り出したのが「モノとディスプレイとの重なり」で取り上げた作品だったと考えられる.ディスプレイが放つ光の明滅がヒトの認知を曖昧な状況に追いやり,スマートフォン以前には体験できなかった認知のバグ=主観的体験を引き起こした.

認知のバグは,「ディスプレイ」という装置がつくるピクセルの集合=情報世界を物理世界に重ね合わせて,あたらしい情報パターンがつくられることに由来すると私は考えている.ただバグは認知プロセスを完全には止めはしない.ヒトはバグを受け止めつつ,ディスプレイのピクセルによる情報と作品が物理世界に置かれた状況から与えられる情報を組み合わせて,あらたな認知体験として処理していく.この連載で扱った作品では,ディスプレイを物理世界から切り離された情報としてみるのではなく,物理世界と重ね合わせて見ることが試されていると考えられる.その結果として,ディスプレイを用いた作品は物理空間のXYZ座標の置かれる物質とディスプレイのXY座標に割り振られた色情報を重ね合わせて,これまでにない情報のレパートリーが現れる場をつくった.ヒトの意識はその物質と情報の組み合わせを即座に処理できずに認知がバグったような主観的体験を引き起こした.

私が「モノとディスプレイとの重なり」で取り上げた作品は以上のような傾向があったと,今の私は考えている.