仲正先生としんかいさん by にゅん  

仲正先生としんかいさんのバトル。論点がどんどん広がり中デス。どちらかと言えば仲正先生の攻撃性が強いという感じでしょうか。
ただ、遡って「ことの起こり」が何だったかと言えば、それはしんかいさんによる「不適切な批判」だったっし、そのような批判に対しては仲正先生のように怒り狂う人がいてもおかしくないとも思うのデスよね。

などという傍観者心情から先日たまたま気軽にこの件でにゅんがつぶやいてしまたのが、しんかいさんの眼にとまり、Twitterにおいてにゅんとしんかいさんの間でやや感情的なやりとりとなりました。そちらの件は今後もなるべく冷静に続けて行くとして、そのためにも、この文章では「不適切」と感じた理由をいったんまとめておこうとおもいます。これが間違っているかもしれませんし。

にゅんの理解では、このつぶやきが仲正先生に火を付けました。


これをしんかい第一の矢としますね。

しんかい第一の矢


補助線になると思うので、最近のこのつぶやきも引用しておきましょう。

にゅんがどこを「不適切」と感じるかはまったくベタでして、しんかいさんにとっての「歴史」が仲正先生の「歴史」と異なる、みたいな良くある話。人が真剣に著した書籍に、異なる歴史観からのみ重要な論点について「逃げた」と断じられたら怒るのも無理はないだろう、というのが上記のにゅん見立てデス。

で、もっと言うと「集中講義!日本の現代思想」は「客観的な歴史」を述べた本というわけでもないでしょう。むしろ、実は「かなり個人的な本」ではないでしょうか。すっかり人気が衰えてしまった「現代思想」の中に残すべき価値があり、それが何であるのかを強い気持ちを込めて論じた本にしかにゅんには見えなかったりします。

「現代思想」って、しんかいさんにとっては(もしかすると)ソーカルによってデタラメであることが証明されてしまった歴史事件だったのかもしれまんが、どっこい仲正先生にとってのそれは、時代の波による浮沈はあったにせよ、依然として重大な価値がある語り継ぐ価値のある歴史遺産なのですね。その認識の前ではソーカル批判は意味が無くはないものの、当然ながら本質的な批判であったはずはありません。

ここでは、「そういう本」であるということの傍証として「集中講義!日本の現代思想」の「序」および、最終講からアツいところを引用しておこうと思います。強調は原著によります。にゅんではありません。
まず「序」から。

  • このようにして、「現代思想」は流行らなくなっていったわけであるが、その影響がまったく消滅してしまったわけではない。”現代の哲学・思想”業界において、二項対立思考が復活しつつあるといっても、世界を善/悪にはっきりと切り分ける、かつてのマルクス主義のような統一的な世界観を構築することが、無条件に良しとされているわけではなく、”絶対的正義”を掲げることに躊躇する感覚はある程度働いているように思われる。
  • また、そのような二項対立的な図式を描こうとする自己自身の「主体性」や「理性」を無邪気に信頼することもできなくなっている。(人間の営みである)哲学・思想によって「世界」を全体的に見渡すことのできるような絶対知に最終的に到達することは不可能である、という「現代思想」の教訓はそれなりに生きている。そして、すでに述べたように、ニュー・アカデミズム的な知の流動性は、もはや不可逆的なまでに、日本の知の見取り図のなかにとけこんでいる。
  • 本書の以下の講義では、この死滅しつつあるように見えるが、依然として一定の影響を発している「現代思想」とはそもそも何であったのか、あるいは、何であったのか、ここまで述べてきたような概略に即して、今一度確認していきたい。

  • 思想自体が”流行商品”になってしまうというのは、ある意味、ポストモダンの最先端をいくような話にも思えるが、完全に使い捨てにしてしまうのは、「思想史」的には損失である、とー依然として、近代的な節約の精神を捨てられないー私は思っている。
  • 本書全体を通して、「現代思想」の何を、後世のために遺産として書きとめておくべきか、考えるヒントを提供したいと思っている。


そして以下は最終講からアツいまとめの箇所デス。

  • 「ミクロな差異」に目を向けたデリダやドゥルーズ、フーコーを否定して、”大きな物語的対立図式”だけ追いかけようとすれば、余計に”真実”から遠去けられ幻想にはまっていく、ポストモダン的に複雑化しつつある現状分析の道具としては、「現代思想」は今でも、というよりは、今こそ、有効であるーーとすくなくとも私は思っている。

  • 幸いなことに、我々はまだ完全に「動物化」されていないので、少しくらいは「言語」で書かれたテクストを通して、お互いの考えをある程度「理解する」、あるいは「理解したつもりになる」ことができる。少なくとも「人間」であり続けている間は、”若干の分析装置”がそれなりに役に立つはずである。そう思っているから、あるいは少なくともそう思いたいからこそ、悪あがきのように、この書物を書いているのである。それが、私が「現代思想」から学んだことである。


どうデスか? 本にはもちろん通史的な記述もありますが、それはあくまで「現代思想」の価値を浮き彫りにさせるためのものであり、時系列に「即して」はいますが、歴史事情の説明それ自体は二の次というわけデス。



しんかい第二の矢


いやちがう、仲正先生はソーカル批判によってご自分自身明らかに「現代思想」に対する態度を変えていたし、その証拠がある、というのがにゅんが理解しているところの、しんかいさんの「二の矢」デス。確かに、もしそうであるならば、ソーカル批判の後に書かれた「集中講義!日本の現代思想」にこのことが書かれていないのはモヤモヤするものではあるでしょう。