ディスプレイ時代の芸術作品_ネット公開用
甲南女子大学文学部メディア表現学科 メディア表現発展演習Ⅰ Bグループ

あらゆる出来事を「目の前」「手もと」にもってくるディスプレイ

「ディスプレイ」という四角い枠のなか

私たちは出来事を「どこで」体験しているだろうか? 私たちは「ディスプレイ」という四角い枠のなかであらゆる出来事を体験するようになっていないだろうか? スマートフォンとともに生活するようになった私たちは,これまで以上にディスプレイを見つめ続けている.そして,ディスプレイのほとんどはコンピュータと結びついている.コンピュータは二次元という限定はつくけれど,情報を処理して,とても柔軟にディスプレイに表示できる.ディスプレイは常に私たちの視界を占め,常に,ヒトに刺激を与え続け,ヒトから行為を引き出している.

現代の情報技術が可能にした現実空間


  • 僕たちは「現実空間」を,ユークリッド幾何学で記述されるような客観的かつ数量的なものとは考えていないし,主体の心理的な体験空間であるとも考えていない.「現実空間」は「情報空間」の部分的かつ瞬間的な現勢化であり,現勢化するや否や未だ現実化していない問題提起的な潜在的「情報空間」として再度問い返される.「物理空間」は即座に「情報空間」の素材として可変的かつ流動的な課題へと変化する.そしてまた,僕たちは「情報空間」を別の仕方で「物理空間」へ転用しようとする.そのループの中で,僕たちは仮設的な「現実空間」を体験している.


twitterInstagramFacebook それぞれリンクをクリックしてみても,そこに見える風景は異なる.ログインしていない場合は同じだけれど,ログインすると異なる情報空間が広がっている.そして,その情報空間の多くは物理空間から切り取られたものである.さらには,情報空間へと転用された物理空間=美味しそうなご飯や綺麗な風景などをディスプレイで見て,物理空間の意味が変わるような体験をしている.私たちが体験する現実空間は物理空間と情報空間とが入れ子状になって構成されている.その接点には,テレビ,コンピュータ,スマートフォンなどのディスプレイがある.

ディスプレイを基点として「物理空間」と「情報空間」とが重なり合う

私たちが普段見つめているディスプレイはコンピュータに直結して,インターネットにもつながる情報が柔軟に処理される場であり,ヒトから行為を引き出す刺激を出し続けるフレームとなっている.ディスプレイは「物理空間」のなかにありながら,フレーム内は「情報空間」である.ディスプレイを基点として「物理空間」と「情報空間」とが重なり合って,ヒトの認識次第でどちらの空間にもなるようなものとなっている.

ディスプレイの構造



Houxo Que(ホウコォキュウ)

私たちは光を見ている,光源そのものを見てしまっている

  • 単純に僕たちの実生活のなかで,ディスプレイを見過ぎていると気づいたんです.実生活のなかで平面メディアを見る体験として,圧倒的にディスプレイを見る時間の方が長い.僕たちが生きている時代のなかで,自分たちが最も触れていて,かつては存在しなかった形式としてディスプレイがある.そのように浸透しきった新たな技術というのは,私たちの生活にとっての何らかの影響や反映を生んでいるのではないかと考えました.それゆえに日常的に私たちがディスプレイから受け取るもの,また与えているものの存在を考えていくのは重要だと思っています.そこで観察していった時に,結局現れてくるものは光なんですよ.私たちは光を見ている,光源そのものを見てしまっている.それはそもそも私たちの進化の過程であった環境では,想定されていなかったことではないでしょうか.そして,光る板を日常的に見る習慣なんてかつてはなかったですよね.でも今は日常化してしまっている.

  • 「Featured Interviews_Houxo Que」, “QUOTATION” Worldwide Creative Journal no.22, 2015年, p.115

光とモノとの合いの子のようなもうひとつの平面

  • 色面の高速の切り替えがディスプレイの最前面に位置するガラスという存在を消失させる.同時に,蛍光塗料と光がモノを透過して相互に干渉したきわにできる滲みの光配列が,ディスプレイの最前面にガラス面とは異なるもうもうひとつの平面をつくりだす. Queの《16,777,216 view》において,ガラス面は消えるのではなく,モノとして確かにそこにあることが強調されつつ,その上に光とモノとの合いの子のようなもうひとつの平面が生じるのである.それはPhotoshopが一般化した「レイヤー」という概念に近いものかもしれない.けれど,それはもちろん無色透明のデータ上のみに存在するレイヤーではない.それは光でもモノでもない.それは光源を見続けることになったヒトに起こる認識のバグであり,データに基づき作用する未だ名づけ得ない平面なのである.


ガラスのようにあるけどないように見えて,やっぱりあるという,一度「ない」ことを経由した上での「ある」ということが重要である.モノとデータというふたつの存在のあいだに膜のようにあるガラスが,ふたつの世界を共在させる世界をつくつくっている.だから,ガラスを「ない」から「ある」にすると,ふたつの世界が共在していることが強調されるとともに,それを可能にする世界そのものが現れることになる.

世界は平面的に複数あるのではなくて,ディスプレイのように垂直方向に複数の世界が重なっていてるのだろう.俯瞰の視点から見ると,その垂直的重なりが見えなくなり,水平方向にいくつかの世界が存在していて,交わっているように見えるのである.

Houxo Que個展「SHINE」

2017年6月10日(土)-2017年6月25日(日)