🖲Hello world talk memo

2012

  • でもそのことよりも,なんか重要な気がするのが,

  • スマフォのある位置だ.ポケットからサッと出して,手のひらの上,もしくは目の前の景色の前,僕と景色の間に差し込まれるスクリーン.僕と世界の間.

  • スマフォ(ネット機能があったガラケーやDSなどの通信デバイスも含めていいのかも)より以前のスクリーンは,据え置きモニタだったし,ラップトップになって,より僕に近づいてきたけど,やっぱり“あちら側”にあった.

  • (自分)→→→→→→→ (世界)

  • だとしたら

  • (自分)→→→→→→→(スクリーン/世界)

  • スクリーン(=インターネット)は世界の側にあったと思う.

  • ところがスマフォ以降ではこうなった

  • (自分)→(スクリーン)→(世界)

  • 自分と世界の間にスクリーンが差し込まれる.

  • いや,“手”という極私的なモノのこちら側という意味では

  • (自分/スクリーン)→→(世界)

  • かもしれない.

  • そしてスクリーンに映されるのは「ラーメン食べた」とか言ってる,知り合いの状況=別の世界なのだ.つまり

  • (自分(別の世界))→→(世界)

  • 目の前とシンクロしない世界が自分の中に自由自在に入り込んでくる.

  • これは世界の構造が変わって来ていると言えるんじゃないか.

  • なんとなく,この変革は想像以上にすごいことなんじゃないかと感じている.

  • どこにいても買い物できるーとか,上に書いたような便利さとかなんかじゃない,

  • はっきりとはわからないけど,写真や映像の発明で,人類の世界認識が大きく変わったような,いや,それ以上の変革なんじゃないかと,個人的には思っている.

  • 無題,センボーのブログ

2014

  • Mixed media (Acrylic paint on LCD display, video imagery)
  • 近年スマートフォンを肌身離さず持ち歩き、インターネットと常に接続された生活を送る現代人にとって、それらデバイスも身体の一部になってきている。この作品では、ネットワークやコンピューターデバイスの普及により変化した、現代における身体の境界線、新たな身体性を、ボディペイントという形式で問う。
  • 全身を単色でペイントした人物の映像がLCDディスプレイに映され、その人物以外の部分が同色で直接ディスプレイにペイントされている。映像内の人物と背景にあたる部分が同色にペイントされていることで、見る側の視覚に混乱が起き、絵画とも映像とも判別できない感覚 ― そこに実際の人物が存在するかのような錯覚すら ― を引き起こし、身体とデバイスの境界の不確かさに感覚が揺さぶられる。
  • この作品では、その特殊な視覚効果以外にも、メディアにまつわる「存在」の問題も扱っている。寿命によって制限される人間の身体、デジタル化され延命されるかもしれないデータとしての身体の存在、ディスプレイ・デバイス自体の寿命、そしてそれよりはるかに長く存在することができるであろう、絵の具という古くからあるメディア。ペインティングという技法を介して、複数のタイムスケール上で存在する身体やメディアが一つの作品の中でせめぎ合い、現在という絶妙なバランスの上で成立することで、存在そのものに対する問いかけを行っている。