振り返り2017
  • このトークに向けて,「クリーンな色面に重ねられたテクスチャが生み出すあらたなマテリアル」という紀要論文を書きながら,小山さんの写真について考えました.写真家つながりということで,昨年の小林健太さんとのトーク「ダーティーなGUI」で得たアイデア「ダーティー」と「クリーン」という区分けで,小山さんの写真を考えたらどうなるのか,という感じで論文を書きました.なので,小林さんとのトークから引き続き論文にもラファエル・ローゼンダールが登場します.物理世界はじまりの写真とコンピュータはじまりのブラウザとを対比させるには,ローゼンダールがどうしても必要となってくる感じです.そして,小山さんとローゼンダールとを結びつけるのは,データにテクスチャを付与するという行為ではないだろうか,と考えました.
  • 落合はホームランを打つための行為を複製しているのではなく,その場のパラメータを調整して「ホームランを打つ」という出来事を複製している.「行為を複製する」だと,落合はまだ身体に留まっていし,比較対象が過去のホームランを生み出した自分の行為となっている.しかし,「ホームランを打つ」を行為ではなく,出来事と考えてみると,自分の身体も物理世界の一部のパラメータであり,行為を物理世界で自分が最も操作可能なものとして認識できる.ここでは過去の自分の行為が持ち出されるのではなく,「ホームランを打つ」という出来事をなすために行為のパラメータを調整すればいいということになる.となると,ホームランは複製されたものではなく,それぞれが「ホームランを打つ」という個別の出来事ということになる.それはとても普通のことであるが,ここでは一度,自分の行為を物理世界のパラメータのひとつとして認識しているという点が重要である
  • 作品で興味深かったのは,池田剛介の《Translated Painting》シリーズと,永田康祐の《Function Composition》である.池田の作品は,デジタルフォトフレームの表面に透明の樹脂を施し,ディスプレイの上に水滴がついているような状態を作り出していた.ディスプレイは白く光るだけであるが,水滴が光をRGBの三原色に分解して見せていて,鑑賞者の動きに応じて見え方が変わっていく.モノと自然現象との重ね合わせに,鑑賞者の感覚が重ねられる心地よい体験であった.永田の作品は,平面の合成画像と言えるものであった.平面の上に平面が合成され,その結果として,平面と平面とのあいだの時間の流れ,空間の流れ,モノの生成と消滅といったものが表わされているようであった.両者の作品は,引き続き考えてみたいものである.

  • しかし,私が興味深かったのは話のメインではなく,千房が90年代のメディアアートはオカルトぽい感じがしたという指摘である.コンピュータやインターネットがどんなものかわからなかったときに,訳がわからないものへの恐怖からオカルトが要素として作品に入ったのではないだろうかと千房は言っていた.これ自体も興味深い指摘であったが,千房はその前に,2009年に制作されたネットやマウスなどのインターフェイスを用いた連作「ゴットは、存在する。」について,インターネットがポケットに入ってあとでは,他者がブラックボックスになっているとして,他者を理解するためにオカルトが必要だったと言っていたことである.コンピュータやインターネットが当たり前になった今では,ヒトの方がブラックボックスになっているという指摘は,エキソニモの作品,そして,現在のメディアアートと呼ばれうる作品を理解する上で重要な点だと考えられる.
  • 氷川さんはアニメと特撮のちがいから「ダーティ」という言葉を持ってきていて,ダーティが「超現実的」「異次元空間」という言葉と結びつくところが興味深い.アニメのセルがもつツルツルなクリーンさをダーティにすることで,物理世界の有り様が変化していき,世界の法則そのものを変更していってしまう.

  • 氷川さんのテキストは「ツルツル=アニメ」「ゴツゴツ=特撮」「ギラギラ=CG」「パキパキ=デジタルペイント」と「質感」の話になっているので,インターフェイスをこのような質感で語る文章を書いてもいいかもしれないと思った.
  • 今回も前回に引き続き,永田康祐さんの作品を考察しました.けれど,前回は水平に置かれたディスプレイでしたが,今回は主に垂直に設置されたディスプレイについてです.ディスプレイの光とモノとそのあいだの空間について書いています.最後の節は,それがひっくり返る感じです.
  • 前回の個展よりもディスプレイとその前の空間に置かれたモノ=水+アクリル(?)の水槽とが密着している感じがあったことと,ディスプレイが映しているのがグラデーションの映像だからか,どこか前回の個展でエアキャップにくるまれて壁に立てかけられた作品を強く思い出した.映像が具体的なものではないということが強く影響しているのかもしれない.あと,ディスプレイの表示面すべてにモノが重なっているからかもしれない.表示面すべてが被われていることも相まって,モノの輪郭を明確に示すことがない映像は単にディスプレイが光っているようにも見える.けれど,それもまたひとつの情報のあらわれであって,ディスプレイから放射される光は色の情報を示しているという点では,それが具体的な何かを示していようがいまいが関係ない.ディスプレイは光を放ち,その光はモノを通過していき,ヒトの網膜にあたる.このとき,ディスプレイはひとつの面であり,モノも面であり,網膜も面である.どこがインターフェイスかということを考えていると,それぞれがインターフェイスであって,これら複数のインターフェイスが包み込んでいるモノやヒトが同時に存在している場のあり方を考えることが重要なのだろうなと思う.

  • このことが気になるのは,「optical camouflage」での山形さんの作品でディスプレイにCGで制作された鳥が激突するという作品があって,その鳥はどこに衝突しているのかということが気になっていたからである.水はどこから注がれているのか,ペットボトルのような気がするけれども,それは見る者が勝手に結びつけているだけである.実際は,鳥がどこにぶつかっているのかわからないように,水もどこから注がれているのかわからないのではないか.山形さんの作品には,ディスプレイ内だけで完結していながら,外のモノとつながるようにディスプレイが設置されるがゆえに,ディスプレイ内の映像の位置というか,その存在のあり方自体がわからなくなるような感じがある.そして,そう考えはじめるとディスプレイ内の映像は,実際はどんな場所・平面なのだろうかとなって,それはディスプレイという平面がどんな場所なのかを考えるきっかけにもなるような感じを受ける.

  • 永田さんがディスプレイ内の映像を外と重ね合わして,ディスプレイとモノとヒトとが同時に存在して,「見る」ことが成立する場をつくっているとすると,山形さんはディスプレイの内と外を接続させているようにみせながら,ディスプレイを完結した平面として提示して,ディスプレイとその映像が物理世界から外れていって,どこにも帰属しないような状況をつくっている,というようなことを考えた.
  • 科研費「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」研究グループは,2015年11月30日から12月21日にかけて,同志社女子大学京田辺キャンパス内 msc ギャラリーで開催された展覧会・Nukeme「Old School」を中心にして,ヌケメさんを特集した「Poi Vol.1 featuring Nukeme」を刊行しました.
  • マクルーハンによる「身体の拡張」から,コンピュータによる「知能の拡張」に至り,渡邊恵太さんの『融けるデザイン』にいたる「物理世界」と「非物理世界」との関係の変化を辿っていきたいと考えていますが,どうでしょうか.

  • でも,初回から,この構想はいい意味でなくりました.それは,久保田晃弘さんの『遙かなる他者のためのデザイン』がでたからです.なので,初回のテキスト「最小化するヒトの行為とあらたな手」は,マクルーハンと久保田さんを扱ったものになっています.
  • 本論文は,ラファエル・ローゼンダールの作品と小山泰介の写真を参照しながら,コンピュータと物理世界とのあいだに現われるあらたな表現の可能性を考察していくものである.ローゼンダールはベクター画像という数学的な完全さを示す画像形式を用いて,傷ひとつない色面を用いた作品をウェブに発表し続けている.しかし,ウェブ上の作品を物理空間に展示する際に,彼はクリーンな色面をあえて汚すように割れた鏡や砂を床に敷き詰める.ローゼンダールは物理世界のダーティーな状況に重ね合わせて,コンピュータ上では汚すことができないベクター画像の表現の可能性を押し広げようとしている.小山はデジタル写真で光のデータそのものを表現しようとする.それは逆説的に,物理世界のテクスチャを光のデータに付与することで可能になる.小山はデジタル 写真を野晒しにしたり,海に沈めたりするとともに,カメラやスキャナーを物理的に誤った操作を行なうことで, 光のデータにテクスチャを重ねていく.ローゼンダールと小山の試みは,コンピュータのクリーンさとダーティーな物理世界とのあいだにあらたなマテリアルを生み出しているのである.
  • 今回,小林さんの作品にはエキソニモの《Body Paint》にも通じる「気持ち悪さ」を感じました.でも,その「気持ち悪さ」はエキソニモのようにわかりやすいものではなかったような気がします.モノと映像とが重なり合うディスプレイが基点となって,さらにモノと映像とが重なり合う「画面」が立ち上がるプロセスを記述していくなかで,作品の体験が「気持ち悪く」なっていたような気がします.
  • インターフェイスという膜でヒトの物理世界とモノの物理世界とを取り囲み,ヒトとモノとの重なりを生じさせるひとつの仮想世界をつくりだしている.ここでの仮想世界は物理世界と対立するものではなく,ヒトとモノのふたつの物理世界を重ね合わせるために必要な触媒として,ヒトとモノとの世界に重ねられる存在となっているのである.(p.100)
  • Psychic VR Labに行き,ゴットスコーピオンさんと会い,MicrosoftのHoloLensを体験させてもらった.目の前には何も着ていない服のボディがあり,その前で手を開く動作をすると,ボディに服が被さる.HoloLensの視野角が狭いために,服に近づくと私にはボディの一部にしか服が被さってない状態が見えるけど,視線を動かすたびに,そこに服が現れる体験は新鮮であった.物理空間には服はなくて,HoloLensを通すと服が見える.さらには,HoloLensは上のGIFのように服の全体,カメラが捉える領域のデータが処理されているのだけれど,ヒトは適切な距離からは画像のように全体を捉えることもあれば,服に近づいたときには,自分の視線の先に服の一部を見るということが起こる.物理空間と仮想空間とが入り混じりつつも,視野角というヒトとデバイスのフィジカルな制限で仮想空間と物理空間との重なりが決定され,その境界がつねに自分の動きに追随するというのは興味深い体験だった.
  • 本論考は,コンピュータがカーソルを中心にして身体のあらたなあり方を規定する想像力をつくりだしていること論じたものである.カーソルと身体との結びつきを考察するために,評論家の斎藤環がインターネットのOSI階層モデルによって説明する「ラメラスケイプ」という概念と,文学において身体が消失してきたとされる論を参照する.そこから,文学から消失した身体がコンピュータに移行してきたことを示す.
  • はじめは,スケッチパッドでは「行為する手✍️|最小化する手👍|制約する手🖖」という3つの手が絡み合っていると考えて,テキストのタイトルは「スケッチパッドで絡み合う三つの手」でした.けれど,平倉圭さんの「合生的形象 — ピカソ他《ラ・ガループの海水浴場》における物体的思考プロセス」の「合生的形象」という言葉に惹かれて,今のタイトルとなりました.
  • 記念すべき10回目は,5回目で一度取り上げた谷口暁彦さんの個展「超・いま・ここ」で展示された作品について書きました.谷口さんは個展「超・いま・ここ」で2007年から2017年までの10年間の活動を振り返っていました.今回の連載は谷口さんの振り返りに引っ張られる感じで,谷口さんのふたつの作品《夜だけど日食》(2008−2010)と《透明感》(2015)とりあげて,モノの側面からディスプレイの「これまで」を振り返りつつ,イメージの側面からディスプレイの「これから」を考えています.ディスプレイの「これから」を考えるのは10回目だからというわけではなく,谷口さんの「超・いま・ここ」が単にディスプレイの現在地を示すだけでなく,《透明感》を含む2015年の連作である「スキンケア」で,ディスプレイの先・奥を示し,会場で配布されたテキストでも「折りたたまれたディスプレイ」とディスプレイの「これから」を示してことに反応した結果です.
  • 甲南女子大学文学部メディア表現学科2年生必修授業の「メディア表現発展演習Ⅰ」の授業ノートです.今年度から授業資料をDropbox Paperで作成するようにしました.スライドで区切られることなく,思考が流れていく感じが気に入っています.その分,思考に区切りなく,学生さんには迷惑をかけたかもしれません.でも,この授業を通して,「分からないものを考えること」を感じてくれた学生さんもいたので,とてもうれしくもあります😊
  • 永田の作品《Sierra》は,デスクトップという普段は静止画のところに動画が流れることで,ひとつ土台が崩れて,メニューバーやドックの裏側にある「デスクトップ」が,もう一段感,奥に引っ込んだような気がした.動画の奥にもうひとつ「デスクトップ」があると思ってしまうような感である.山形の《Desktop》を見ると,机の上(デスクトップ)という3次元空間にある天板という平面の上に様々なモノが乱雑に置かれているのだが,そこにノートパソコンを置いていた平面だけが綺麗に残っている.3次元空間の机のデスクトップに「デスクトップ」を示し続けるコンピュータの痕跡がある.ここでは3次元的なコンピュータが示す平面的な痕跡,及び,ディスプレイ上の「デスクトップ」という2次元と部屋に置かれた机の上に散らかるモノたちという3次元的存在との重なりが起きている感じがあった.