🎤多摩美卒業制作展#00000000 トーク

📱

  • 展示空間は、植民地時代に建てられた倉庫を保存し、文化地区として再生した一角にある。再生といっても日本のリノベーションとは異なり、空き家の状態ほぼそのままである。写真の展示には不向きだが、後述するようにそうした空間の中に写真の新しい方向が潜在しているように思う。台湾の研究者やキュレーターらと話し合いながら、わたしは再開発のためにいままさに壊されつつある現場と、そこで剥き出しになる建物の断面を撮影することにした。再開発の対象地区になった場所は、途端に人気を失う。フェンスで囲まれるからという理由もあるが、その途端に誰もが注意を払わなくなるのである。それはあたかも、定期的に更新されるインターネット上の「風景写真」のように、物理的な存在ではないかのように打ち捨てられる。 

  • しかしある時代に使われた物質には、それなりの記憶があるだろう。その細部に目をこらすのは写真家以外にはいない。グーグルアースに残らないのは、そうした歴史的な細部なのである。そこでわたしたちはそれを、ギャラリーの白い壁ではなく、壊されゆく建物と同じ材質で作られている廃墟の空間にインスタレーションするという方法をとった。展示した場所は、屋根はあるものの、扉のない入口から風や埃がいくらでも入ってくるという、ある意味で風通しの良すぎる空間である。そこでわたしは光だけでなく風もインスタレーションの要素として考えることにした。結果、空気の流れの状態によってに見え方が変わるような配置になった。pp。334-335 

  • 風景論───変貌する地球と日本の記憶 港千尋
画像からの圧力
裏に圧倒的なデータの厚み=バルク🧱

📃インタラクションにおける映像の物質的質感
Mikael Wibergは『The Materiality of Interaction: Notes on the Materials of Interaction Design』で、インタラクションの物質性について論じている。WibergはApple Watchのスピーカーの振動を用いた「水抜き」をインタラクションの物質化の例としてあげている。ここでは、スピーカーの振動が音を出すためだけにだけではなく、振動という物理現象が水を動かすことを利用した設計をすると、Apple Watchが水を吐き出すためにも使えるということを指摘している。Wibergは物理的機構を問題にしているが、ここで提起されて問題は、物理現象をシミレーションするコンピュータと深く結びついた映像とも関係が深いと考えられる。映像は重力などの物理現象とともにあることを改めて考えなければならないだろう。それは、撮影が物理法則のもとにあるということではなく、映像が物理法則のもとにあることを考えることである。本発表では、この問題意識のもと、イッセイミヤケの2019春夏のWebページにおけるスクロールが画面を「布」という物理的存在として扱っていることを考察して、コンピュータ以後の映像の物質的質感を考えたい。


✍️

画像の「厚み」🧱

  • 紙焼きの写真では紙の薄さが画像の「厚み」をないものにしてきた
  • コンピュータのディスプレイにおける画像
  • ブラウン管ではモノの厚みと画像の厚みは分離していた
  • 液晶になりモノの厚みと画像の厚みとが重なりあり、くっつき出した
  • スマートフォンで手に持たれるようになったことで、画像の厚みが無意識に入り込んできた(のではないか?)

  • 私たちはこれまでことさらにモノのサーフェイスのみを切り取ってきた。それは、モノの最表面が否応なしに外界の気体分子を巻き込んでしまうように、ヒトもそこに魅惑されてきたからであろう。ヒトはモノのサーフェイスのみを見て、サーフェイスで取り囲まれた部分だけをモノと見なし、その厚みを意識の外に追いやってきた。だから、ヒトとコンピュータとのあいだも「厚み」として扱われることなく、Macのファインダーのアイコンが示すように二つのフェイス(顔)が向かい合ったときの「線=インターフェイス」として「厚み」を持たないものにされてきた。「厚み」を形成するバルクは、いつの間にかにサーフェイスに囲まれ、その存在を忘れられている。ヒトはモノに表と裏をつくり、それらをサーフェイスとしてひとつなぎにしてバルクを囲み、表と裏とのあいだに存在する厚みを排除する。バルクはサーフェイスに囲まれた厚みとして関心の外に置かれる。
  • モノを見るとき、映像を見るとき、さらにはスマートフォンに触れているときにバルクは欠如している。サーフェイスを透かし見るとき、そこに「インターフェイス」というモノや映像とヒトとの「あいだ」は意識されるけれど、モノや映像の「厚み」は無視される。サーフェイスの先につづくバルクへの関心が欠落している。この連載「サーフェイスを透かし見る👓👀🤳」は、サーフェイスに取り囲まれていつの間にか忘れられた「厚み」に「バルク」と名付けて、モノや映像の厚みを考察しているのだと考えられる。


画像の「浅さ」と「速さ」📲

  • 弱冠39歳という若さが話題になったが、それよりも驚きなのは結成たった一年の新党を率いて当選したことである。政治経験が「浅い」にもかかわらず、である。結果的に既存政党の力は大幅に後退し、第5共和制の風景は大きく変わることになったが、そこにわたしたちが見るのは、異例とも言える速さだろう。非常に限られた時間に組織し活性化するスピードである。マクロン候補の「共和国前進」に選挙運動を映像には、若者が多い。デジタルネイティブ以降の現象のように思えてくるのだ。p。190 

  • 政治経験の「浅さ」と情報伝達の「速さ」が補完しあっているのかもしれない。フランス国民議会(下院)戦の第1回投票でもマクロン陣営が、一気に畳みかけるようにして、大勝利を収めている。候補者を揃えることができるのか危ぶまれたほどなのに、ここでも異例の速さで議会を制するだけの組織に仕立て上げている。それが実力なのか、それとも既存政党の状況が有利に働いたのかは不明だが、異例に低い投票率がプラスに作用したのかもしれない。そこに弱点もあるだろう。短時間で作られたものは、短時間で壊れることもある。pp。191-192 

  • 風景論───変貌する地球と日本の記憶 港千尋

反復性と追体験───触視的メディアとしてのゲーム/アニメーション、土居伸彰・吉田寛・東浩紀
  • 土居
  • 最近、こうした限界を超える可能性を、ウェス・アンダーソンの『犬ヶ島』(2018年)のような人形アニメーションや、山田尚子の『リズと青い鳥』(2018年)に感じました。これらの作品には、ある種の立体性を感じます。自分とはちがう異種がただ目の前にいるような表現に見えたんです。もしかしたら、三次元の世界を「約束事」を通して平面に縮減する「表象」というシステムのつぎのモードとして、タッチパネル以降の粘土をこねくり回すような新たな知覚の条件のなかで、人形アニメーションやCGアニメーションの立体性のほうがポテンシャルを持ちはじめているのかもしれない。もちろん、二次元のスクリーンでアニメーションが上映されることそのものに限界を感じているわけではありませんが、次元の縮減だけが表現の可能性を保証するようなことはないのではないか。p.109/187

  • それはたいへん重要で、『ピーターラビット』のウサギは、意味づけが不可能であるような次元に触れていると思います。言い換えれば、昔は自然現象に感じていた崇高さを、ぼくたちはCGアニメーションに感じるようになりはじめているのではないか。またオライリーに言葉になりますが、彼はCGを「野生のアニメーション」だと言っています。手描きのアニメーションは、作ったひととのつながりが切り離せない。それに対してCGアニメーションは、誰の手のものでもないイメージで埋め尽くされている。この指摘は、デジタル化以降のアニメーションの本質を突いていると思います。いまのアニメーションは、人為的・人工的に作られたイメージであるにもかかわらず、ほんとうの自然と同じぐらいに人間を圧倒する、新しい自然を作りはじめている。p.123/187