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エキソニモへの質問案
前半:「メディアアートの輪廻転生」展やNYでのリサーチのインタビュー
展覧会の概要,構成,企画意図,開幕後に思ったこと
今回の出品作「ゴット・イズ・デット」のポスター
常に来ない未来=想像されたメディア・テクノロジー=ユートピア,岩井さんが言っている「「デジタルの永遠性という企業」のキャッチフレーズ」が
,2018年の段階で全く異なる形で来てしまっていることを突きつけているのではないだろうか(岩井さんは「騙されていた」と言っている).
かつて未来だったものが過去になっていく.この移り変わりの中でメディアアートをどう捉えていくのか,という問いを持っていように感じた.
今回の「メディアアートの輪廻転生」をメタ的に捉える作品のような感じがする.「紙/ポスター」という「保存」できるメディア,あり続けるメディアだから,時の流れのなかでメディアそのものではなく,そこに書かれた日付が問題になると考えられる.
赤岩さんのリサーチから考える「魂の継承」
伊勢神宮の式年遷宮
神のリフレッシュ
モノを残すのではなく,スピリットを継承していく
世界遺産の対象外
残すことの本質
「保存」ではなく「アップデート」
作品の様々なバージョンから作品の本質を考える
死の履歴
テクノロジーが機能していた
文脈の特異点
として作品があり,そこに死が宣告されることで,テクノロジーとその文脈も「死」に置かれる.そうして,アーティストは作品の死とともに,テクノロジーの死を語る.それが,オーディオガイドに収められている.しかし,アーティストが作品に死を宣告したとしても,テクノロジーが死んでいない場合もある.そのとき,作品は死んでいるのか,死んでいないのか,曖昧な状況に置かれる.そのような状況でも,作品の歴史につけれらた死の履歴は残る.死の履歴をタイムラインに抱えつつ,それでもなお,そこにあり続けることができるというのが,メディアアートの特質であり,それゆえに,メディアアートは輪廻転生を本質に抱え込んでいるのかもしれない.
なぜ,メディアアートではモノと体験とのあいだにズレが生まれるのかを考えてみる.すると,絵画や彫刻とは異なり,メディアアートで使われている技術は「死んでいない」と言えるのではないかと,はじめは考えました.しかし,絵画や彫刻といった伝統的なメディウムも「死んではない」からこそ,今でも作品に用いられていると言えるわけです.では,メディアアートのメディウムは絵画や彫刻とはどう違うのか.それは,メディアアートで使われるメディウムは,マクルーハンが言うところの「Looking through(透かし見る)」のメディウムで,
絵画や彫刻では「Looking at(見る)」のメディウムなのではないかと言うことを考えました.メディアアートで使われるコンピュータやスマートフォンと言ったものは,ヒトがそれを「透して」世界を見るものであって,絵具や石と言ったものは「それを見る」ことが世界を見ることになっているのではないか.
だから,絵画や彫刻はもともとヒトとメディウムとのあいだに距離あり,メディウムを見つめることが作品となるのに対して,メディアアートのメディウムはもともとヒトと重なり合っているものを少し引き離して,ヒトとメディウムとのあいだに距離をうまくつくれなければ,作品とならない.引き離されたヒトとメディウムの距離は,時の流れのなかでどんどん開いてしまい,作品としての許容される距離を超えてしまい「死」の状態を迎えてしまう.絵具や石はもともとヒトから「見る」ためにそこにあるので,それは「死」とは無縁な状態にあるのではないか.
技術の道徳化における自由の概念
メディアアートにおけるヒトと技術との関係の自由から作品の生死を考える
確かに,このように自由を再解釈したとしても,実際に技術的人工物に自由を帰属させねばならないわけではない.しかし,こうすることで,一緒くたにされて自由の領域から排除されてきた人工物を,自由の領域に呼び戻すことができる.
志向性が,人間–技術連合体のなかで人間的要素と非人間的要素に分散されているのと同じことが,自由にも当てはまる.技術は,「それ自体おいて」自由ではありえない.しかし,人間もそうなのである.自由とは,人間–技術連合体の性質である.
一方で,技術は,人間の実存が生起し形成される場である物質的環境を提供することによって,自由の構成を助けている.そして他方で,技術は人間と連合体を形成することができ,その連合体が自由の居場所となる.技術的媒介は道徳的な判断形成の空間を作り出す.志向性の場合と同様に,自由もハイブリッドな事象であり,ほとんどの場合,人間と人工物の連合体のなかに居場所を持っている.p.107
技術が,常に人間の行為の形成に介入しているとしたら,我々は,技術の影響力に抵抗するなどという無意味なことはやめて,媒介をうまく形成することを目指したほうがいいのである.
人間的自由とは技術から独立した完全な自立性であるなどという考えにしがみついているよりも,自由とはその人を規定したりその人に影響を与えているものとの間に関係を築く能力のことである
,と再解釈したほうが賢明である.p.229
後半:水野からの投げかけとディスカッション
エキソニモのプラットフォーム
「メディアアートの輪廻転生」は,岩井俊雄さんがインタビュー映像で言っているデジタルの「0」と「1」とのあいだのグラデーションとして「プラットフォーム」をつくっているのではないか.エキソニモは,デジタルの対比としてのアナログではなく,デジタルとアナログとをつなぐものとして「場」をつくりだしてきたと考えられる.
IDPWの「インターネットヤミ市」は,インターネットとリアルとのあいだのグラデーションが現れる場として設計されている.だとすれば,「メディアアートの輪廻転生」も「死」と「生」とのあいだのグラデーションが現れる場,それは「生」でもあり「死」でもある作品について考えることなのかもしれない.それは「生」と「死」という状態におさまらないことを考えることかもしれない.
それが「輪廻転生」なのかもしれない.「輪廻転生」は「魂」と「容れ物=体」が別れていることを前提としていて,魂が何度も違う体で生まれ変わってくるとすると,ソフトウェアが生き続けて,ハードウェアは死に続けることが同時に起こり続けるということだろうか.あるいは,「輪廻転生」という大きな流れのなかで,所々でソフトウェアとハードウェアのインタラクションがあって,それが「作品」として現れると考えた方がいいのかもしれない.Designing Fluid Interfaces のスライドのイメージで考える.アートの場合,何から主導権が離れるのか?「メディアアート」もヒトとコンピュータとのインターフェイスも,これまでの「モノ」や「生物」という概念を更新していく要素を持っているのではないだろうか.「モノ」と「生物」との関わりの変化が,「生」と「死」の意味合いを変えてしまう?
メディアアートの「輪廻転生」と「エラボレーション(精錬)
「メディアアートの輪廻転生」と「岐阜おおがきビエンナーレ2017」との対比
つまり,私が主張したいことは,単なる記録や保存という行為が思考の放棄であり,その都度毎の「新しい時代」の記録や保存は,自らの動体視力の「精錬=エラボレーション」として,生存のために活用されるべき「術=アート」でなければならないということです.
「行為遂行的=パフォーマティヴ」な思想を批評点として扱うべく,メディア・アートに着目し,作品展示ではなく選別した資料展示を,「精錬=エラボレーション」のためのシンポジウムを,ビエンナーレ自体を実践場として構想しました.
実空間としての大垣のみならず,SNSや中継を通じて,私たちの企みにぜひ参画してください.
メディア・アートのエラボレーション 松井茂(ディレクター/IAMAS准教授)
「保存」を目的とすることなく「過去」と向き合う
「中継器」として「場」をつくり,作品を輪廻転生させたり,精錬していく
私たちは現在という瞬間を,過去と未来の間の滑らかな移行であると感じている.ただしその考えは,根本的発明と素形の発生が認められるときには当てはまらない.発明や素形物は,物理学上の巨大エネルギーによって時間をかけて生成される,ごくごく少量の新物質のようなものである.現実のなかでのそれらの出現は,すべての人間に判断の修正を余儀なくさせる.その新しい知識の微片は,瞬時にではなく徐々に,すべての個々の存在に浸透するまで,ゆっくりと成長していく.pp.142-143
時のかたち───事物の歴史をめぐって,ジョージ・クブラー
かつての「あたらしい」ものが,瞬時に「太古」のものになってしまうという,ある意味の「あいだ」のなさがメディアアートの面白さなのかもしれない
インターフェイスは「動的ふるまい」を一般化していく.メディアアートは「動的ふるまい」を目指しながらも,その批判的態度から「動的ふるまい」からヒトやモノをあえて引き離すこともする.それゆえに「メディアアート」によってはじめて,「動的ふるまい」の輪郭を掴み,ある時代の感覚を保存することが可能になる.けれど,保存された作品を起点に「動的ふるまい」に合流することは難しい.なぜなら,ヒトの感覚とのズレがそこにはあるからである.「動的ふるまい」の流れはあるのだが,そこに合流できるかどうかは一定の条件があると言えるだろう.しかし,「動的ふるまい」の記述は残すことは可能である.
「メディアアートの輪廻転生」はある時代の「動的ふるまい」の記述を残し,記述とのインタラクションのなかで確かに存在した「過去の「動的ふるまい」」を,現在の時点のヒトとの関係のなかで生成するプラットフォームを目指しているのではないだろうか.この作業は美術館というよりも博物館的行為であり,
考古学的想像力のなかでメディアアートを捉えることになるだろう.
かつての「あたらしい」ものが,瞬時に「太古」のものになってしまうという,ある意味の「あいだ」のなさがメディアアートの面白さなのかもしれない.
ヒューララ感覚からメディアアートを考える
フロンティア・オブ・コミュニケーション───新しい想像力のインターフェイスへ Part.3
#抜書
http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic000/frontier/frontier_3_j.html#CON06
藤幡───僕はコンピュータと人間が出会っていろいろやっていく間に,コンピュータ側から作りだしてきた言葉みたいものがこちら側に押し寄せてきて,それがあるリアリティを生んでいること自体ものすごく怖いと思うんです.フロッピィ・ディスクの中に僕が書いた原稿が入っているということを,今はわりとみんな信じられるようになったけれど,5年ぐらい前はデータがメモリに入っていて,メモリからフロッピィに落とすということはあまり信じられなかった.では,
そのフロッピィ・ディスクの中にデータが入っていることを明確に確認できる時とは,どういう時なのかというと,コンピュータと生身の人間とのインタラクションが一番派手な時です.つまりそれを失ってしまった時
,例えば,ワードプロセッサで3時間かけて文章を書いて,フロッピィ・デスクにしまわないで電源を切ってしまった時とかです.僕はそれを相原コージの漫画からとって「ヒューララ感覚」と呼んでいるかれど,あれはもう坂口安吾や太宰治の虚無感ではない.みんな体験していると思うけれど,本当にもう虚数の世界に入ってしまう感じ.だから,作った時ではなくて,なくなった時に強烈に感じるあの感覚の延長が,これからもっと押し寄せてくる.オプティミスティックにいえば,そこに巨大な地平が開けているという人もいるし,もうやめてくれという人もいるし,エンデみたいな人もいる.
伊藤───さっきのヒューララというのは,自分が内包していたあるチャンネルを絶たれてしまうという…….
藤幡───時間がパラレルだったということを急に見せつけられるのではないかということですね.生きている時間とコンピュータの時間がパラレルにあって,かすかにキーボードでやり取りをしていたのが,電源を切ったらポンと消えてしまう.実はこちら側にものではなかったと.だからDTPと言っているのもで重要なのは,やはり紙に出すということで,ペーパーレス・オフィスというのは嘘ですよ.
メディアアートの輪廻転生で「ソフトウェア」は展示されていない.「あちら側」の存在であるから,展示のしようがない.展示されている時点で「生きている」と見なされるので展示されようがないのかもしれない.徳井さんの作品が「ソフトウェア」と言えるかもしれない.生きているけれど,配信されないという点で,プラットフォームから締め出された状態=死であるとも言える.
Please turn on JavaScript to use Paper in all of its awesomeness. ^_^
インターフェイスは「動的ふるまい」を一般化していく.メディアアートは「動的ふるまい」を目指しながらも,その批判的態度から「動的ふるまい」からヒトやモノをあえて引き離すこともする.それゆえに「メディアアート」によってはじめて,「動的ふるまい」の輪郭を掴み,ある時代の感覚を保存することが可能になる.けれど,保存された作品を起点に「動的ふるまい」に合流することは難しい.なぜなら,ヒトの感覚とのズレがそこにはあるからである.「動的ふるまい」の流れはあるのだが,そこに合流できるかどうかは一定の条件があると言えるだろう.しかし,「動的ふるまい」の記述は残すことは可能である.「メディアアートの輪廻転生」はある時代の「動的ふるまい」の記述を残し,記述とのインタラクションのなかで確かに存在した「過去の「動的ふるまい」」を,現在の時点のヒトとの関係のなかで生成するプラットフォームを目指しているのではないだろうか.この作業は美術館というよりも博物館的行為であり,考古学的想像力のなかでメディアアートを捉えることになるだろう.かつての「あたらしい」ものが,瞬時に「太古」のものになってしまうという,ある意味の「あいだ」のなさがメディアアートの面白さなのかもしれない.